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三ヶ日
​みかん作りの歴史

​「紀州みかん」から始まった三ヶ日のみかん栽培

​三ヶ日でのみかん栽培は、今から約300年前(江戸時代中期)、三ヶ日町平山地区の山田弥右衛門が、西国巡礼の際に紀伊那智地方から「紀州みかん」の苗木を一本持ち帰り、庭の片隅に植えたことから始まりました。

​山田弥右衛門の持ち帰った紀州みかんは、小ぶりでしたが 香りが強く、大変甘く、種がたくさん入っていて「小みかん」や「地みかん」と呼ばれていました。たいへん甘く味がよかったため、その木をもとに苗木を作り、家の近くに植えたり、近隣に分けたりしました。その後、平山地区から三ヶ日町全体へ広まっていき、明治の中頃まで盛んに栽培されました。
現在国内では紀州みかんはほとんど栽培されていませんが、JAみっかび本館の玄関横には紀州みかんの木があり、冬になると小ぶりの果実をつけています。

 

​「紀州みかん」にかわり、「温州みかん」が広まる

紀州みかん導入から約100年後(今から約180年前)の天保年間に、三ヶ日町平山地区の加藤権兵衛が三河の国(愛知県)吉良地方から温州みかんの苗木を導入し、庭に植えました。この温州みかんの実は、大きく、味のよいものでしたが、種がなかったため、当初は「縁起が悪い」と毛嫌いされました。武士の時代では『子孫繁栄』の視点から見るととても縁起の悪いものだと捉えられたのでしょう。江戸末期になると、種無しの食べやすさが徐々に受け入れられ、栽培が広がっていったそうです。
そしてだんだん、実が小さく種も多い紀州みかんを植える人は少なくなり、紀州みかんに替わって温州みかんが増えていきました。
​明治の中頃になると、温州みかんがまとめて植えられたみかん園が作られるようになり、本格的なみかん栽培が始まりました。この頃には、病気や虫の防除や、樹の剪定技術も向上。栽培面積は100ヘクタールを超え、収穫量も向上しました。またこの頃には三ヶ日のみかんが馬を使って全国へ運ばれ、その味の良さが知られていた と言われています。

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​三ヶ日のみかん栽培が飛躍的に拡大した大正時代から昭和にかけて

​大正9年、三ヶ日に、みかん栽培の専任技術員として 中川宗太郎 という人物がやってきました。中川は、槙の樹の防風林やコモ掛け、剪定、病気や虫の防除、土づくりと三ヶ日の土地にあった栽培技術を指導しました。また、生産したみかんの販売についても、出荷組合を作っての共同出荷を始め、これにより三ヶ日みかんの知名度が高まることとなりました。
​中川の教えを受けた三ヶ日の若者たちは熱心にその技術を広めてゆくとともに、大規模な造成を行い、それまでよりもさらに規模の大きな集団 みかん園が誕生しました。

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​中川宗太郎(中列 右から3人目)とその門下生たち

​その後、第二次世界大戦、景気の好況、経済的な混乱など、様々な時代背景から、三ヶ日のみかん栽培は何度も難局を迎えますが、それらを乗り越えて今日に至ります。

三ヶ日では、三ヶ日みかんの発展に尽くされた三大恩人を『山田弥右衛門』、『加藤権兵衛』、『中川宗太郎』と定め、現在、三ヶ日町を見渡せる稲荷山公園には、この三大恩人に感謝する記念碑『柑橘頌徳碑』が建てられています。

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